中国美術と言えば一番に名前が上がる、中国近代絵画の巨匠、「斉白石」をご紹介します。
斉白石は清代後期から中華民国・中華人民共和国にかけて、画家・書家・篆刻家として活躍しました。実際に世間の評判を得たのは60歳の還暦間近という大器晩成型の芸術家です。
名前 | 斉 白石(齊白石、さいはくせき、Qí Báishí) もとの名は純芝、のちに璜 |
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号 | 三百石印富翁・寄萍堂主人・借山吟館主者・杏子塢老民など |
生没年 | 1864年1月1日(同治2年11月22日)~1957年9月16日(93歳没) |
出身地 | 清湖南省長沙府湘潭県 |
職業 | 画家・書家・篆刻家 |
目次
作品について
作風は素人目線でみると、いわゆる「へたうま」。
草花や虫・水生生物・鳥などの小動物を描き、大胆でありながら緻密。
たっぷりの絵の具を使ってざっと書かれたように見える花弁。一方で細密な虫の羽。一枚の絵の中で、その両方が主役として存在しています。
また、山水についても、「山水十二條屏」(1925年)が北京保利国際オークションで1億4080万ドル(9億3150万元)で落札されアート界のニュースになるなど高い評価を得ています。
さらには、書や篆刻においても評価は非常に高く、独自の境地を極めたことで知られます。
幼少期
斉白石は、1864年1月1日湖南省長沙府湘潭県の貧農の家に生まれました。7歳の頃、数ヶ月私塾で初等教育を受けたことはあったものの、経済的理由のため学業を継続することはできませんでした。幼い頃から絵を描くことが好きで、放牧などの手伝いをしながら過ごしていました。少年期の斉白石は体が弱く、農作業をすることが困難であったようです。
青年期
12歳で大工の見習いとなり、その後すぐに家具職人(指物師)に転向しました。10年余りは木工として生活していましたが、その技術によって近隣に知れ渡ったという逸話もあります。
絵の勉強は独学で、彩色版画絵手本として広く普及した芥子園画伝(かいしえんがでん)を参考にしていました。
画家として
1889年、25歳でようやく文人画家の胡自倬(沁園)に就いて画の勉強を始めます。
画家として生きる決意をした斉白石でしたが、当初、絵は全く売れず、人物画の依頼を受けて糊口をしのぐ生活でした。そのような生活の中でも、詩、花鳥画、鳥獣画、山水画を学び、篆刻を始めます。
五出五帰
湖南省で芸術家として名声を得、40代になると「五出五帰」といわれたように5度にわたり中国全土を巡りました。
名山や大河を堪能し、名筆をその目で見ます。特に八大山人、石濤、徐渭、呉昌碩といった先人に強い影響を受け、 斉白石独特の画風をより一層深めることとなります。
その後は一旦故郷に戻り、10年間、読書や制作に没頭し、「借山図巻」・「石門二十四景」などの大作を生み出しました。
北京~成功・日本との関わり~
55歳のころ、故郷の戦乱を避けて北京に移り住みます。
そのころ、斉白石は高名な画家であった陳師曽に見出されます。
陳師曽は、芸術的な交流を深めるとともに様々な形で白石を支援します。1922年、陳師曽は斉白石の作品を携えて日本に渡り、日中共同絵画展に出品しました。そして、そのほとんどを高額で売却することに成功し、ここで斉白石の名は一挙に高まることになります。
その後、膨大なコレクションで知られるようになる外交官の須磨弥吉郎も中国駐在時代に重要な後援者となりました。
北京芸術専科学校教授、中国美術協会主席など重要な役職を歴任。
1957年9月16日、93歳でその生涯を閉じました。
美術市場での評価
斉白石は、美術市場で今なお高額落札の常連にいます。
2017年末には、「山水十二條屏」(1925年)が北京保利国際オークションで1億4080万ドル(9億3150万元)で落札され、彼を「1億ドルクラブ」に押し上げたというニュースがアート界を揺るがしました。
斉白石は生涯で8000点から15000点の作品を残したとされていて、そのうち3000点は美術館の所蔵となっています。
しかし、オークションハウスではこれまで18000点以上の作品が取り扱われてきました。これはもしかすると贋作が含まれていることを表しているかもしれません。
現に、「老鷹圖」は2011年に6550万ドル(4億2550万元)で落札されて、オークション史上最も高額な絵画の1つとなりましたが、後に入札者によって絵画の真贋に関する疑問が提起されました。
終わりに
文人的素養を重んじる北京で、農民出身で木工だった斉白石は白眼視されることもありました。しかし倣古主義に陥った中国美術界の旧習を打ち破り、清新で素朴、大胆な作風で新しい境地を開きました。
今も人々を惹きつける斉白石の作品の魅力は、市場で高い評価と価値を認められていることに現れています。
そして、中国美術界の巨匠、斉白石の作品は意外と身近に存在するかもしれないのです。
斉白石は、日本での評価が国際的な評価のきっかけになったこともあり、日本国内で見つかることが多い作家です。また、93歳と長寿で亡くなるまで描き続け、多作でもあったため、まだまだ作品がどこかに眠っている可能性があります。
斉白石のもとの名は純芝、のちに璜と改名しましたが、字の白石で知られます。
号は非常に多く、白石、白石山翁、木人、楼城、寄萍、老萍、借山翁、三百石印富翁、寄萍堂主人、寄萍堂上老人、借山吟館主者、杏子塢老民など時代によって変化します。
祖父、曽祖父の時代から家にあった掛軸、額物、またはマクリなど改めて見てみると、これはもしかしてといったものが見つかるかもしれません。心当たりがあれば、お調べになってはいかがでしょうか?