目次
茶碗のはじまり
茶碗は茶道具の中でもっとも人気が高いといわれます。
鎌倉時代に禅宗の僧が中国から持ち帰ったのが茶碗のはじまりで、南北朝・室町時代と輸入する時代が続きました。
しかし、唐物の天目茶碗だけでは数が足りないため、室町時代中期に瀬戸で天目の写しが焼かれるようになります。
戦国時代になると、今度は朝鮮半島から陶磁器が輸入されるようになり、そのなかに抹茶茶碗として使われるものが出てきます。井戸茶碗がその筆頭で、三島(刷毛目、粉引)、呉器、割高台、堅手などが含まれます。
桃山時代には志野、織部、黄瀬戸、唐津などの和物茶碗と、千利休がはじめた楽茶碗が生まれます。
この時代には朝鮮半島や中国へ茶碗を注文することも行われ、茶碗の質・量ともに飛躍的に充実しました。利休の頃の朝鮮茶碗としては、斗々屋、蕎麦、柿の蔕が、織部の頃のものとしては御所丸、金海が知られています。
唐物茶碗
中国製の茶碗で、抹茶茶碗として用いられたものを唐物茶碗といいます。
高麗茶碗も唐物茶碗に含まれた時代がありますが、現在は分けられています。
唐物茶碗は青磁、白磁、天目の3つに分類されます。
青磁・白磁の茶碗
青磁は隋・唐の時代からありますが、そのころのものは抹茶茶碗には使われていません。馬蝗絆に代表される砧青磁で、茶碗に適した寸法のものが抹茶茶碗として重宝されました。
珠光青磁は砧よりもあとの時代のものですが、珠光が砧青磁よりも茶味が深いとして取り上げ、利休も世間に知らしめました。
白磁は定窯や磁州窯のものと推定されています。
天目茶碗
鎌倉時代、中国の浙江省天目山の禅院に学んだ日本の僧が、寺で使われていた建盞を日本に持ち帰りました。天目茶碗の名はこの故事に由来します。口が開き、底が締まったすり鉢型で、口縁で碗側が一度内に絞ってあります。底が小さいため、天目台(貴人台)という専用の台と一緒に使われます。
天目茶碗は福建省建陽県水吉鎮の建窯などで作られ、鉄分を多く含んだ陶土と艶のある黒釉が特徴です。この釉面の変化によって多くの種類に分けられています。
のちには、建窯だけでなく、西安省吉安の永和鎮の吉州窯で焼かれた玳玻盞をはじめ、他窯の茶碗にも、天目の名前が使われるようになります。
そのほかの唐物茶碗
そのほかの唐物茶碗としては、染付、祥瑞、呉須、絵高麗などがあります。染付では明の宣徳年間につくられた雲堂手があります。祥瑞と呉須は日本からの注文によって作られた抹茶茶碗です。絵高麗は磁州窯系で転用品です。
高麗茶碗
高麗茶碗とは、朝鮮半島で焼かれた日常雑器が抹茶茶碗として使われたものです。姿に風格があり、戦国武将にふさわしいとして好まれました。
高台に刀剣の柄に巻くチョウザメの皮に似た白釉の凝結(カイラギ)が見られることも、武将茶人の好みに一致しました。
高麗茶碗の分類
狂言袴、三島、粉引、刷毛目、井戸、熊川、呉器などがあります。
井戸はさらに「大井戸」「小井戸(古井戸)」「青井戸」「井戸脇」と細かく分類されます。
伊羅保茶碗
伊羅保茶碗は、江戸時代初期に日本からの注文で作られたと考えられています。
伊羅保の名前は、手触りがいらいら、いぼいぼ(ざらざら)しているところに由来するとされ、伊羅保は当て字です。
作行は、やや薄めで、形は深め、胴はあまり張らず、腰から口まで真直ぐに延び、口が大きく開いていいます。伊羅保茶碗には、古伊羅保、黄伊羅保、釘彫伊羅保、片身替などがあります。
御本茶碗
御本は、寛永16年の大福茶に細川三斎の喜寿を祝うため、釜山窯に茶碗を注文したのがはじまりです。このとき、小堀遠州が茶碗の形をデザインし、三代将軍家光が下絵を描きました。
釜山窯は、朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で、茂三、玄悦、弥平太などの作者が知られています。
古い高麗茶碗を基として、御本立鶴、御本雲鶴、御本三島、御本堅手、絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など変化に富んでおり、対馬宗家を通じて徳川家やほかの大名に送られました。
御本の名前は、お手本の意で、日本で作られた手本をもとに朝鮮で焼かれたことに由来します。淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本または御本手と呼ぶこともあります。
楽茶碗
楽焼は、天正期の中頃、千利休が瓦職人であった長次郎に、聚楽第建造に使った土で茶碗を焼かせたのがはじまりです。利休の「わび・さび」の精神を具現化した茶碗として、「一楽、二萩、三唐津」と茶人好みの茶碗の筆頭にあげられます。色は黒と赤しかなく、図柄はほとんどありません。
長次郎の手になるもので千利休が名作と見立てたと伝えられる7つの茶碗は、「利休七種」あるいは「長次郎七種」と呼ばれます。
初代長次郎は天正17年に没し、茶碗制作を手伝っていた田中宗慶が楽家の開祖になりました。
正統な楽家の楽焼を「本窯」、傍流の楽家の楽焼を「脇窯」と呼びます。3代目の道入は名人とうたわれ、艶のある黒楽、赤楽を完成させました。
京焼茶碗
粟田口焼・御室焼・清水焼に代表される京都の陶器を一般的に京焼と呼びます。
京焼は、江戸時代前期に野々村仁清や尾形乾山によって飛躍的に発展を遂げました。さらに江戸後期に入ると、奥田頴川、青木木米、仁阿弥道八、永楽保全などの名工が数多く生まれ、第二の隆盛期を迎えました。永樂了全より後の永樂家は千家に作品を納めて今日に至っています。
気品の高い優美さと絵画的な意匠が京焼の特徴です。
国焼茶碗
桃山時代になると、美濃系、唐津、信楽、備前などで抹茶茶碗が作られます。特に美濃系では瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部と続きます。
また、文禄・慶長の役のときに連れてこられた朝鮮の陶工によって、高取、上野、薩摩、萩などで名碗が輩出されました。
遠州の好みで茶碗を制作した遠州七窯として高取・上野・志戸呂、朝日、膳所、赤膚、古曽部が挙げられますが、遠州のころには古曽部、赤膚は窯が存在していません。のちに遠州系のものを焼いたと考えられます。
茶碗の買取査定のポイントは
保存状態
欠けやヒビなどがある品だと、その分査定評価は下がります。
作家・時代
名のある作家や古い時代の作家の作品は、高額での買取が期待できます。茶碗そのものの出来や図柄も買取価格に大きく影響します。
付属品
茶道具は、本体を入れる箱にはじまり、付属するものいっさいを含めて「次第」と呼びます。値打ちのある茶碗は、一般的に共箱に入れられて保管されています。名物の茶碗になると、二重、三重、時には五重、六重という体裁になることもあります。次第が充実している茶碗は、高価買取が期待できます。
また、家元など有力な茶人の箱書があれば、査定でプラスになります。楽茶碗は制作した当座にそのときの千家茶匠の箱書があることがもっとも良く、箱が失われたり損じたりした場合は、なるべく近い時代の千家茶匠の箱書が求められます。もしそれができなくても、千家の茶匠の箱書が望ましいとされます。二重三重に箱書が重ねられる場合、同じく千家歴代の茶匠の箱書があれば、茶碗の価値は一層高くなります。
茶碗の目利きは大変難しく、買取業者により査定価格が大きく異なることもめずらしくありません。きちんとした査定をしてもらうためには、しっかりした目利きのいる買取業者に頼むことが大切です。